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事業化されてスタッフの意識は変わった 選手のセカンドキャリアのパイオニアになりたい│事業運営担当 望月雄太

掲載日:2026年3月2日

~事業運営担当~
望月雄太(もちづき・ゆうた)東芝ブレイブルーパス東京 事業運営担当

~事業運営担当~

望月雄太(もちづき・ゆうた)東芝ブレイブルーパス東京 事業運営担当

高校からラグビーを始めたそうですね。

 小学校、中学校はサッカーをしていて、他のスポーツをしてみたいと思っていたとき、知り合いから、「ラグビーをやってみたら?」と声をかけられました。現在、高校王者の桐蔭学園(神奈川県横浜市)は、その頃、全国大会に出場したことがなく、いろいろな中学からラグビー部員を集めているときでした。中学3年の秋、桐蔭学園の部員を集めるトライアウト(実技試験)があると聞いて参加しました。僕一人が初心者で、あとは経験者ばかりでした。「キックを蹴ってみて」と言われても楕円球は蹴ったことがないし、タッチフットも横で見ていました。

しかし、合格したのですね。

 そうです。身体も飛びぬけて大きくないし、初心者でしたが、スラロームを走るタイム測定が速かったらしいです。僕は神奈川県秦野市出身で、実は地元の公立高校に行きたいと思っていました。中学の先生に桐蔭学園には行きたくないと言ったら、「君が狙っている高校は合格が難しいから桐蔭学園に行け」と、厳しい言葉をいただきました。これが僕の人生の中では大きな転機で、先生の言葉で地元から外の世界に出ることができたのです。

そして、桐蔭学園でラグビーを始めたのですね。

 桐蔭学園を紹介してくださった方に勧められて、中学3年の2月、3月に秦野ラグビースクールの練習に参加しました。それがラグビーをした最初です。高校2年生の時、桐蔭学園が初めて全国大会に出場し、東大阪市の花園ラグビー場に行きました。僕は大会前まではレギュラーではなかったのですが、大会に入ってからロックの先輩が怪我をして先発で起用されました。その試合をたまたま同志社大学の岡仁詩先生(同大名誉教授。同大ラグビー部監督、部長など歴任。元日本代表監督)が見てくださっていて評価していただき、岡先生から桐蔭学園の監督のところに直々に連絡をいただきました。

同志社大学に進学した、きっかけですね。

 花園に出るまでは、ラグビーを続けるかどうか決めていませんでした。それが花園に出て世界が変わり、岡先生に声をかけられてさらに広がりました。しかし、正直なところ関西方面のことはよく知らなくて、大学、社会人のラグビーもあまり見ていなかったです。実家に近い大学に行こうかとも思ったのですが、どこからも声はかかりませんでした。同志社に行ってみると、岡先生がご自身で大学を案内してくださって、岡先生との出会いが、今につながるターニングポイントになりました。

どんな刺激を受けたのですか。

 岡先生のご自宅に伺うと、奥様から「何を飲む?コーヒーがいい?紅茶がいい?」と聞かれました。「なんでも良いです」と答えたら、「あなたはラグビーをやめさない」と言われました。「ラグビーのプレーに何でも良いプレーなんてない」ということです。ラグビーはいろいろな選択肢の中から、どっちに進むか自分で決めるスポーツです。それを教えてくださったわけです。岡先生のご自宅にはたくさんラグビーの試合の映像があって、「お前、あの試合観たか」と、当時はVHSテープですが、よくお借りしました。本当にいろいろなことを教えられました。

東芝のラグビー部に入ったのは、なぜですか。

 トップチームでやりたいと思って、岡先生にも相談していました。ある日、岡先生のお宅に同志社の卒業生でNECグリーンロケッツ(現:NECグリーンロケッツ東葛)の向山昌利さんがいらっしゃったようです。岡先生から電話があって、「今から来られないか?」と言われたのですが、出席しないと単位を落としてしまう授業があり、行けなかったのです。もし行っていたら、NECに入団した可能性もありました。
 東芝は、同級生の吉田大樹が行くことになっていて、僕もお願いしてトライアウトに参加させてもらいました。練習ではアピールできませんでしたが、その夜の食事会で頑張ったのが良かったみたいで(笑)、チームに入ることが決まりました。

その後、東芝で13年間プレーされましたね。

 高校、大学では、ラグビーを辞めようかという瞬間がありましたが、東芝に入ってからは一度もありませんでした。スタメンに定着したのが6年目で、31歳で初めて日本代表に選出されました。28歳からの4年間が東芝の中でもっとも濃密な時間だったと思います。それまでは32歳くらいまで現役を続けられたら、東芝の社業に専念しようと思っていましたが、日本代表入りしたことで、さらにプレーしたくなりました。33歳で膝の大けがをしたのですが、結局は35歳までプレーしました。

続けられたモチベーションは何ですか。

 仲間の存在だと思います。ラグビーという競技も社会人になってから魅力を感じるようになりました。僕はスポーツ観戦がそれほど好きではないのですが、ラグビーは別です。ラグビーは理不尽です。前に進まないといけないのに、ボールは後ろにしか投げられない。この理不尽さをどう打破するかを考える。そこに奥深さを感じます。一人でボールを持って行くだけでは止められる。パスをして次の選手を前に出す。その瞬間、瞬間に最善の選択を決めないといけない。そこが面白いし、それが上手くできている選手を見る楽しさがあります。よく考えてプレーしている選手と話すと、年齢に関係なく、すごく魅力がありますね。

    
    

現役を引退した後の進路は、いくつかの選択肢があったのですか。

 現役はやり切った感覚がありましたが、33歳で怪我をしたあたりから、人に何かを伝え、教える大事さを感じていて、自分は何をすればチームに貢献できるかを考えていました。若いころはプレーをすれば良かったのですが、35歳のとき、もうプレーでは貢献できないし、引退するべきだと思いました。いろいろな経験を重ねてきたので、FWコーチで貢献できないかと思って、当時の瀬川智広監督に相談したのですが、「採用をやってほしい」と言われました。

グラウンドではないところで、貢献を求められたのですね。

 すごく悩みましたが、いろいろな人な相談して引き受けることにしました。採用の仕事は、監督、ヘッドコーチと補強するポジションを相談し、各大学をまわって、練習、試合を見ていきます。採用担当になってから分かったのは、採用はチームの中枢にいる重要なポストだということです。採用の良し悪しでチームの成績が決まる。大変な仕事を受けたと思いました。

それまで縁がなかったような大学も行ったのですか。

 京産大とはつながりがなかったのですが、伊藤鐘平を獲得したかったので通い続けました。通い続けているうちに、監督の大西健さんに可愛がっていただけるようになりました。まずは濵田将暉が来てくれて、鐘平も続いてくれました。その後も京産大からは採用が続いていて、チームの一大勢力になっています。僕は京産大の練習を見るのが好きでした。スクラムは強く、モールが上手い。こだわりが強くで、そんなところで鍛えられた選手がどう化けるのかにも興味がありました。東芝のスタイルにも合うと思っていました。

望月さんが採用を担当した選手で、いま活躍しているのは誰ですか。

 眞野泰地(東海大)、佐々木剛(大東大)、松永拓朗(天理大)、ワーナー・ディアンズ(流経大柏高校)、小鍜治悠太(天理大)、木村星南(東海大)、原田衛(慶大)、杉山優平(筑波大)、桑山兄弟(早大)。ベテラン以外はほとんどですね。

東芝はこういう選手が欲しいというポイントはありますか。

 僕が重視するのは、タフさと人間性です。そして、もっとも大事にしているのは、うちのチーム文化に合うかどうかですね。入団したとしても、すぐに移籍されるようでは意味がありませんから。

最高に上手く行ったと思う採用は誰ですか。

 木村星南(東海大卒)でしょうね。彼は高校の時はNO8で、プロップに転向したばかりの大学2年生の時、膝の前十字靭帯断裂の怪我をします。3年生でもあまり試合には出ていません。僕は実家が近いこともあって、東海大学の早朝練習に通っていたのですが、そこでコーチから「木村はいい選手」と聞いて、トライアウト的に練習に参加してもらったのですが、身体能力が高く、コミュニケーション能力も高かったので採用が決まりました。以降、ものすごい成長を遂げましたね。

昨シーズンからは事業運営の担当になったそうですが、これから運営側の仕事をしたい人のためにも、リーグワンのスタッフにはどんな職種があるか、教えていただけますか。

 リーグワンになって職種が増えましたね。昔は監督、コーチ、主務くらいです。グラウンドに立つスタッフでいえば、まず通訳が入り、アナリスト(分析係)ほか新しい役割の人が増えました。運営側では広報担当者が必要です。SNSなど各種メディアでの情報発信、取材の対応などですね。採用担当も必要です。さらに、ラグビーという競技を普及させるための普及担当もいます。2003年から2021年まで行われていたジャパンラグビートップリーグは、大きな企業の中にチームがあるのが普通でしたが、2022年にジャパンラグビー リーグワンになり、東芝ブレイブルーパス東京も、東芝の子会社として独立しました。すべてのチームがそうなっているわけではありませんが、うちの会社には事業運営部ができ、チームのスポンサーの獲得、協賛社を増やすなどの営業活動にも人員が必要です。事業運営の職務は多岐にわたります。

具体的には、どんなことですか。

 リーグワンはホストチームが試合の運営を担当します。スタジアムでの演出、お客さんをおもてなしする飲食ブースの設置、ラグビー体験コーナー、タレントさんを呼んでのイベントほか、やるべきことは多岐にわたります。グッズ販売、ファンクラブ、アカデミーの運営、チケット販売などがあり、地域との連携もあります。これらが、僕が担当する事業運営部の仕事になります。

事業運営部は何人くらいいらっしゃるのですか。

 部長を含めて5名で、私はすべてを担当しています。みんながそれぞれ補い合うことで、誰かが急に抜けても運営できるようにしています。

独立した法人になったことで、スタッフ、選手の意識は変わりましたか。

 トップリーグ時代は東芝という会社のなかで、福利厚生や広報の予算の範囲内で運営されていました。お金を稼ぐというマインドはありません。リーグワンになって、ようやくプロチームとしての一歩を踏み出したのです。特にこの3年間でマインドは大きく変わりました。以前はグッズが余ったら無料で配ろうという考えがありましたが、いまは割引して売ろうと思いますし、集客も招待券を配るのではなく、どうやってチケットを買って来てもらうかを考えるようになりました。実際に有料観客は増えています。

そうした業務は引退後に勉強したことなのですね。

 僕が大きな影響を受けているのが、今季から副社長に就任された星野明宏さんです。桐蔭学園の先輩でもあり、2022年、星野さんが我々の会社のスタッフとなったことで、ラグビーに関わる人生が大きく変わりました。星野さんは、大学を卒業後、広告代理店に勤め、筑波大学の大学院で学び、静岡聖光学院に教員として採用され、学校長を務めるなど、さまざまな経験をされています。そんな星野さんに教えていただき、ラグビーの世界にいながら、外の世界の方とも仕事ができています。楽しくて仕方がありません。

星野さんが一般社会でも通じる仕事を教えてくれて、視野を広げてくれたということなのですね。

 そういうことです。いま僕は多くのことを学んでいます。僕はパイオニアになりたいと思っています。東芝で13年にわたってプレーし、日本代表にも選ばれ、採用担当時代も含めれば20年、ラグビーの世界しか見てこなかった人間が一般の社会人として通じる仕事ができるということを示したいのです。だからこそ、たくさんの人に会うことなど、現役時代からやっておくべきことを伝えたいです。そして、みんながその道を歩めるように、しっかり道をならしておこうと思います。